匠は沙耶を部屋まで送って、とりあえず今日は帰る事にした。
ふたりの記念すべきスタートの日。
これ以上を望んだら贅沢だ。
沙耶が言ってくれた匠への想いを今日の思い出として忘れないようにしないと。
「じゃぁー、また…。」
2人は照れくさそうに言って、手を振った。
沙耶は部屋に入ると、匠が買い込んで来てくれた食料を袋からひとつづつ出した。
カットされたフルーツ。
野菜スティック。
一口で食べられる小さいパン。
お湯を注ぐだけのスープに、お茶漬け。
ひとつ出す度に匠の優しさを感じて、沙耶の顔がほころぶ。
「でも、こんなに食べれないよ。」
ピコン。
LINEが入った。
匠かと思いすぐに見た沙耶の表情が、少し曇った。
『結城 敦』LINEのメッセージが届いたことをスマホが通知している。
沙耶の過去を知る、数少ない人のひとり。
誰一人とも連絡を取らないと決めて、連絡先を消去したつもりだったが。。
『仕事の講習会で近くにいるんだ。
会わない?』
結城とは、以前沙耶が結婚した時に保険の見直しをした際に知り合った。
彼は色々な保険を扱う総合案内のような仕事をしていて、相談者に合わせた、おすすめな保険を提案してくれるプランナーだ。
沙耶より少し年上だが、ほぼ同年代ということや、偶然にも地元が一緒だったことで意気投合し、保険以外でも相談に乗ってもらうこともある仲だった。
沙耶は、少しためらったが、結城に借りっぱなしになっていた本を思い出してしまった。
こういうことは許せないタイプ。
とにかく本はどーにかして、返さないと
『いーよ。どこにしよっか?』
LINE通知で沙耶の顔が曇ったのは、結城が嫌なわけでは決してなく、むしろ結城には感謝している。が、結城は沙耶の過去を知っているから。その理由に尽きる。
とりあえず会う約束にして、本だけ誰かに託して
行けなくなったって言おう。
そうすれば、何とか顔を合わせなくて良い。
駅ビルのコーヒー店の窓際の席で何やら本を読んでいる結城を見つけた
相変わらず、読書家のようだ。
沙耶は店の外にある、駅の案内所の柱の陰から、見つからないようにそっと結城の姿を確認した。
「昔と変わりない感じだね。
恋人と話してるみたいに本をみつめてる。」
沙耶はひとりでつぶやいて懐かしんだ。
「おう!本は俺の愛して止まない彼女だからな。」
結城は口癖のようにそう言っていた。
「会って話したいなー。」
でも、それは無理。そううなづいて沙耶は電話をかけた。
「おー。もしもし。着いたか?」
結城が周りをキョロキョロ見渡しながら電話にでた。
「それがね。ごめん。ほんと。
ちょっと仕事でトラブってて、行けそうにないんだ。」
「おー。そっかぁ。まだまだかかる?
なんなら、俺待ってるけど。本読んでるし」
「あ。ごめん。当分帰れそうにないんだ。でね、昼休みにそこのお店の前の案内所に本を預けたの。直接渡せなくて悪いけど……」
そう話す途中で、結城は立ち上がって、
「え?どこどこ?案内所なんてあったっけ?」
そう電話口で言いながらこっちに向かってくる。
沙耶はまだ案内所に預けようとしてたところだ。
「あ……ぁ そんな、すぐに行かなくて大丈夫だよ。」
まさか、電話中に来るとは思わなくて、沙耶はものすごく慌てた。
結城は競歩の選手ですか?というくらいの速さで案内所に到着。
ドアを開けた。
まずい!沙耶はまだ案内所内の柱の陰。出入り口はひとつしかない。
「あ、あの、頼んだ係員さんね、えっと、本当はそういう事規則でできないんだけど、他の係員さんたちに内緒で引き受けてくれたの。でも7時から休憩だから今はいないらしくて。」
柱をうまくつかって、結城の対角線になるように動いて身を隠した。
「あーそーなんだ。俺方向音痴だから、電話出来てるうちに行こうかと思って来ちゃった。笑」
「了解!場所はわかったから後でまた来るよ。ってか、また、会える日でよかったのに。」
柱の向こう側には結城がいる。この距離じゃ声が聞こえてしまう。
「ごめんね。またね。」
沙耶はなるべく声が漏れないように、口を手で覆って答え、慌てて電話を切った。
ん?あいつの声が近くで聞こえたような?
あたりを見回す結城。
目の前の入り口のガラスに、柱に隠れる女性の姿が反射した。
?知らない人だ。
結城はなんだか気になったが、店に戻ることにした。
でも、やっぱり沙耶の声が聞こえた……ような。。。
沙耶は、案内所を出て店の方に向かいながら、すっと横道に入って姿を隠した。
「はぁーっ。心臓が飛び出るかと思った。」
結城が店に戻る後ろ姿をみて、そう言いながら案内所を出た。
♫携帯着信音
沙耶の携帯が鳴った。
横道に入って隠れた結城が鳴らした電話は、結城が知ってる沙耶とは別人が持つ携帯に着信音を奏でさせた。
「なんで?」
結城は頭が混乱した。
いま電話で話してたのは、確かに沙耶だった。
でも、今その電話を持っているのは……誰だ?
沙耶をジッと見つめる結城。
沙耶は電話を念のため小声で取った。
「もしもし?どーした?」
結城の電話口から聞こえる沙耶の声と、今まさに結城の目の前を通り過ぎて行くさっきの知らない女性の声がリンクした。
「沙耶だよな……?」
「え?」
沙耶はハッとして周りを見回した。
沙耶をじっとみつめる、結城がいた。
「沙耶……なのか?」
「なんで?なんで別人なんだよ?
なんなんだよ。何がしたい?」
沙耶の顔付きが一気に変わる。
いつもの、美しさの中に可愛らしさがある表情がどこにもみえず
鋭く、尖った眼を向けた。
「もし、あなたがわたしだったら、きっとする事よ。
子供を持つあなたなら分かるはず。」
結城は、沙耶の豹変した表情を見て辛くなった。
沙耶が言う様に、よく分かるからだ。
「なぁ。無茶はするな。馬鹿な考えはするな。」
「辛いのは分かる。痛い程分かる。でも、自分を大事にしてくれ。」
「自分を大事に? ちゃんとしてるよ? だから自分の意思を尊重してるの。」
結城は沙耶から目を離さず、ジッと見つめながら自分の声が沙耶の心に届けと祈って続けた。
「それは、本当にお前がしたい事か?」
「母親として、すべき事なのか?」
……。
沙耶の脳裏に、最期の言葉が浮かんだ。
「ママ、あったかい。ママ、ニッコリしてる?」
そう言って、力なく小さく微笑んだ次の瞬間、握った小さな手がスルリと滑り落ちた。
「待って!だめ。ママのニッコリ見てないでしょ?
お願い!目を開けて!
違うじゃん?なんで?ママがそっちの役でしょ?
ねー?」
沙耶は息子のヒロとかつてこんな約束をしていた。
「ママはねー、どんな時も、どこにいても、ヒロの味方だからね。
だから、何でもママには話してね。
どんなことでも、必ず助けるから。
もちろん、ヒロが悪いときもある。そう言う時は、ママが一緒に考えて、一緒に苦しんで、一緒に謝る。
だから、ママを信じて、頑張ることや前に進む事を諦めないで。
それと、ヒロのしたいことややりたい事はなるべく叶えてあげたいと思ってがんばってるんだ。
だから、ママに遠慮しないでどんどん言ってね。
だけど……。ママのお願いをひとつだけ聞いてほしいの。
ママが天国に行く日、ヒロの胸の中で逝かせて。
お互いにニッコリ笑って、大好きって言って。
それがママのお願い!」
「ちょっと難しかったかな?」
「ううん。わかった!大好きとニッコリだね!」
さっきまで慌ただしく、騒々しかった病室が静まり返り、心肺停止のアラーム音と、沙耶の叫び声が悲しく響き渡った。
「お願い!待って。ヒロ……お願いだから」
過去の記憶からハッと我に返った沙耶は、結城の静止を振り払って、走って駅の階段を駆け上がった。
「頼むよ。。間違ってるって……。」
結城はスマホの画像の中で、優しく微笑む沙耶の顔をなぞった。
いまの沙耶とは、別人の顔をした沙耶がそこにはいた。
そう。沙耶は顔を変えたのだ。
目的を果たすために。
「彼女と知り合いですか?」
結城に唐突に言い放ったのは、匠の幼なじみ杏だった。
結城は突然の背後からの声に驚いたのと、杏の怪訝そうに沙耶の姿を目で追う表情に思わず、立ち上がって椅子を倒しそうになった。
杏は、その椅子を捕らえて元に戻しながら、結城を座らせた。
「あなたの彼女?」
「え?いや。ってか君誰?」
「あー。別に。たださっきの彼女、うちの病院で見かけたから。」
杏は匠が沙耶を病院に連れてきたのを見ていた。
怪我人とは言え、匠が異常に心配そうにしていたから気になっていた。
杏は、結城に詰め寄った。
「ってか、あんたこそ誰?そして、彼女はあんたの彼女じゃないの?」
たしかに、結城と杏は初対面。
直接の繋がりはない。
いや、なかった。のだが、たった今匠と沙耶を介して、点と点が繋がって、線を結んだことになる。
友達はそう広がって行くんだろうが、決して友達にはなれなそうな2人だ。
「あのさ、見知らぬ人に問い詰められる筋合いはないんだけど?」
結城は、杏の態度に少し……いや、だいぶ腹を立てて、杏を振り払って店をでた。
なんて、図々し女。でも、美人……だったな。
いやいや、何考えてんだ俺。
結城はブルブルと頭を振って、杏の記憶を抹消した。