「記憶は戻ってないようだな。」
父親は匠の様子からそう察して安心した。
書斎の窓から吹き抜けの下のリビングに見える匠の姿を見下ろしながら、あの日を思い出した。
あの日……
天気の良い昼下がりの警視総監室。
特に大きな事件もなく、静かな時間が流れていた。
ずっと書類に目を通していたので、目が乾いて仕方ない。
目頭を押さえて少し眼を閉じた。
自分の呼吸の音が聞こえる。
静かでいい。
そんな時間に少々浸っていたのが、一瞬で景色が早変わりしたかのように変わった。
「大変です。御子息が事故を起こしたようです!」
「事故?どんな事故だ?怪我人は?」
「息子さんは頭を打ったようで、病院に運ばれました。」
一体何をしでかしたんだまったく。
さっきまでの穏やかな時間が嘘のように慌ただしさと、緊迫感が漂った。
匠はバイクで転び、頭を打って一時意識を失っていたが、幸い命に別条はなかった。
指の骨を折っていたが、それだけで特に他に心配はないと言う医者の話しだったが、なぜか目を覚まさなかった。
3日眠り続けた昼過ぎ、母親がたまりかねて医者に尋ねると、医者も原因がわからないと首をかしげた。
「何が目を覚ましたくない理由があるのかな……思春期ですからねー」
なんて医者の適当な返事に母親は大層腹を立てていた。
目を覚ましたくない理由…
たしかにそれはあった。そう。医者の言うことは間違ってなかった。
バイク……男の子……池……泣き叫ぶ女性……
「うわっー。」
匠は1週間眠り続けたあと、叫びながら目を開いた。
「痛っ。」
ベッドについた指に違和感を感じた。
「ここはどこだ?」
匠はバイク事故から今日までの、一切の記憶を無くしていた。
「目が覚めたのか?」
父親が病室に入ってきて、1週間ぶりに目覚めた匠をじっと見つめた。
「平気か?」
「……。」
何故病院にいる?
俺に何があった?
考えても何も思い出せない。
なんだ?このモヤモヤ感。
しかも身体中痛い。
「父さん。俺、どーした?」
「何も覚えてないのか?」
父親はそう言ってため息をついたが、「大丈夫だ。そのうち思い出すし、大した事じゃない。」
そう言って病室から出た。
「ふーう。」
父親は匠の記憶がないことにすごく安堵した。
奴は運がいい。
「大した事じゃない?」
いやいや、記憶が飛んでる事が充分大した事じゃないか?
「なんなんだよ。」
訳がわからない状況に、イライラが絶頂に達して横にあったティッシュの箱を思いっきり投げた。
ドンっ。
「あっぶな。」
投げたティッシュはドアに当たる軌道を描いていたが、そこがガラッと開いたので、廊下まですっ飛んで行った。
ドアを開けたのは杏。
「何投げちゃってるの?そりゃ1週間も爆睡したら、体力有り余ってるよね!」
その言葉とは反対に杏の表情は安心して、力が抜けてしかも泣きそうだった。
「どんだけ心配したと思ってんの!?」
「馬鹿!ほんと、大馬鹿野郎っっ!」
そう言って、匠に抱きついた。
「な なんだよ。何してんだよ。」
匠は杏の行動に少し焦って、思わず突き放そうとしたが、杏は離れなかった。
「心配させた罰じゃ!しばらくこうしててやる!」
本当は涙が止まらないのを、見られたくないだけだけど。
匠はしばらくジタバタしたが、諦めて杏の肩をトントンしながら「悪かった…。」と呟いた。