「ねー。沙耶?沙耶ってば!
聞いてる?」
ボーっとどこかを見つめて動かない沙耶を揺さぶるのは、沙耶の同僚の亜紀。
部署は違うので、職場では休み時間くらいしか顔を見て合わせないが、沙耶を見かけるとまるで仔犬のように走って飛んでくる。
お尻にプロペラのごとく激しく振られた尻尾が見えそうな勢いだ。
今日は、3つ年上の彼と喧嘩をしたとかで、話しを聞いて欲しいと夕食に誘われて、近くの美味しいピザ屋さんに来て居る。
割とガヤガヤ賑やかなお店なので、話しをじっくりと聞く。と言う場面でこのお店のセレクトはいかがなものか?
このガヤガヤ空間の中では、余計亜紀の声が頭に入りにくくて
つい、他のことを考えていた。
「キス…しちゃった。」
「え?何?」
「あ、何でもない!
ごめん。で、何が気に入らないって?
優しい彼氏じゃん。亜紀のマシンガントークをいつもニコニコして聞いてくれてるんだからさ、電話途中で寝られたくらいでそんなに怒りなさんな。」
1時間越えの亜紀トークに毎晩付き合わされている彼氏がすこし哀れに思えて、沙耶は亜紀に意見してみた。
毎晩1時間ともなると、一般市民は電話料金も気になるところだか、そこは亜紀にはノープロブレム。
かなりのお嬢だから。
でも亜紀はお金持ちを鼻にかけたりしない。
持っているものは恐らく良いものだろうが、いわゆるハイブランドは嫌いで、自分が気に入った物をブランドに関係なく選ぶお嬢。だから、一品ものの希少価値がでるほどの物もあるし、露天店で売ってたオリジナルなワンコインの物もある。
それを自慢したり、みせびらかしたりもしない。
そして、亜紀は明るくて、誰に対しても公平な接し方をする、とても素直な子だ。
素直過ぎて時々誤解を招いたり、反感をかってしまうこともあるが、沙耶は裏表ない亜紀の性格が好きで、羨ましいとも思う。
沙耶は少し人の顔色を伺って、自分の思いを伝えられない所があるからだ。
人に拒絶されたりすると、ひどく傷付くから自分から一線を引いて付き合う事が多い。
だから、ほんとの自分を出せる人とはあまり巡り合っていない。
でも、亜紀はあと一歩で、数少ないその人になりそうだ。
しかし、そんな亜紀にもたぶん一生過去の話しは、絶対にできないのだろう…。
「ねー、沙耶!君は最近どーだね?」
酔っ払いの亜紀は、おじさん上司みたいな口調で沙耶に問い詰める。
「どーって。何が?」
「何がって。そんなの決まってるでしょーが。
浮いた話しだよ。ラーブ!
誰も便秘の具合はどーだね?なんて聞かないでしょ?」
ハイハイ。酔っ払いだよ。
便秘は相変わらずですよ。
「ラブ?この歳になってそんな話し。
なんか恥ずかしっ!
やめてやめてー!‼︎」
沙耶は顔が赤くなるのを誤魔化すように顔を両手で覆って、ふざけてみせた。
「何言ってんの!人を想う心を忘れたらダメよ!
こんな幸せな感情は、他にない!
そりゃ辛い時もあるけど、この気持ちは神様が与えてくれたありがたーい感情のひとつだよ!」
うん。たしかに。
人を想う…
沙耶の頭には匠が浮かんでいた。
優しく沙耶の唇を包み込むようなキス。
優しさの中にも心の冷たく冷え固まった氷をすうっと溶かしそうな、温かい体温が伝わってくるような熱いものも感じた。
好き…なの?
沙耶の心にボッと火が灯った。
いや違う。好きなんかじゃない。
灯った火がすぐに小さく消えかかる。
私の心に明かりはいらない。
ただ、彼の心を奪う…。
それが目的なのだから。
沙耶の顔がテーブルのキャンドル風ライトに照らされる。
沙耶は決意を再確認した。
病院のいつものカフェのスタッフ専用コーナー。
「ねー匠⁉︎聞いてる?
ってか、口なんかしたの?ずっと気にしてるけど。」
匠は指摘されてハッとして唇から手を離した。
「いや。何でもない。何もしてないよ。なんにも。
ははっ。はははは。」
杏は、どー見ても不自然な匠を首をかしげて見ていた。
「まぁいいや。最近キス…へっくしょん。」
「あ、失礼くしゃみ出た。」
ぷーっ。匠が飲んでいたコーヒーを吹き出した。
「ちょっと何してんの。汚いなぁー!」
「だだだだだって、いきなりキスとか言うから。」
「キスマイのテレビの話ししよーとおもっただけじゃん?
何慌ててるの?」
…誰かと何かあったな。
杏は直感した。