はぁーっ。
匠はため息に似た深呼吸を深くして、沙耶の病室へ向かった。
ほんとに忘れてるのか?
それとも、受け入れられなくて忘れたふりをしてる?
沙耶の気持ちを考えると、病室へ向かう足も前に出る事をためらう。
どう伝えればいい?
沙耶が妊娠を話してくれた時、喜んだ俺に向けた笑顔。
会うたびに見た、何気ない瞬間にもおなかを愛おしそうに撫でる優しい顔。
小さな子供を連れた親子の様子を見て、ほころぶ姿。
沙耶がどんなに大事に思っていたかが、手にとるようにわかっただけに、匠の心は痛すぎた。
「ごめんなー守ってやれなくて。」
匠の目は涙を必死に堪えていたが、まばたきをひとつでもしたら大粒の涙がこぼれ落ちそうだった。
ガチャ。
泣きそうな顔をなるべく自然に平静に無理やりもどして、大きく深呼吸。
「沙耶、あのさ…。」
ん? いない?
え? どこ行ったんだ?
沙耶は、病院を出て家に向かっていた。
『子供?』
『何のこと?ヒロのことは誰も知らないはず。』
考えても考えても、何のことかわからない。
でも…何か引っかかる。
もしかしたら、家に帰れば何か分かるかも。
そう思って病院を抜け出した。
身体が気だるくて、マンションの階段がいつも以上にキツい。
早く部屋に行きたいんだってば!
重たい足を苛立ちを感じながら動かして、何とか部屋に着いた。
「何か思い出せる?」
部屋をぐるっと一周見渡す。
でも、目に止まったのはヒロの写真だけだ。
沙耶は写真たてに手を伸ばそうとした。
カタッ。
ヒロの写真たてが倒れて、その後ろに入っている胎児のエコー写真が見えた。
『?ヒロの?こんなところに入れたっけ?』
撮影日は数ヶ月前。ヒロのじゃない。
ズキン。
またこめかみに強烈な痛みが走った。
あまりの痛さにしゃがみ込んで目を瞑る。
「んーっ。」苦痛に顔をしかめたが、フッと突然背中を突かれたような感覚があったかと思ったら、スローモーションで沙耶の頭に忘れていた記憶が、映画のエンドロールみたいにして映しだされていた。
検査薬の陽性の線。
匠の喜んだ笑顔。
エコー写真を見た時の自分の感情。
胎動を2人で共感した瞬間。
日に日に大きくなるお腹。
そして…あの日。河川敷で倒れた時。
全ての記憶が鮮明に甦った。
たしかに、いた。ここに。
「いなくなっちゃったって事?」
涙がポロポロ、ポロポロとこぼれ落ちる。
自分でも驚くくらいに、次から次へと。
復讐の道具としか思わないはずだったのに。
悲しくて、申し訳なくて、守れなかった自分が情けなくて。
涙が止まらない。
「ごめんね。ダメなママで。」
ガチャ。
沙耶が音のした方を見ると、匠が、ただ佇んでいた。
目を真っ赤にして、口をへの字にして。
「俺こそ、ごめんな。」
匠が駆け寄って、沙耶を抱きしめた。
「ほんとに、ごめん。
守れなくて。何もできなくて。
生まれてきたかったよな。
抱っこして欲しかったよな。
、、。生きたかったよな。」
あーん。2人で声をあげて泣いた。
一晩中泣いた。